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謎の坪井城

 「坪井城」、存在は知られているが城主を含めて、経緯・由来は伝えられていない。少しだけ踏む込んでみるとおもしろいかも知れない。

戦国時代以前の築城様式

林の向こうかも知れない  坪井地区内から暦応四年(1341年)の銘がある板碑が出土していると船橋市史談会編の「ふるさとの地名―船橋の地名の由来を探る―(平成12年3月31日発行)」に記載されている。そして、この時代に城館があったと。
 幾つかの資料には、詳細な所在地は不明とされているが、上記の「ふるさとの地名」には字中井台と明記されているところがおもしろい。それどころか、基本資料とも言うべき「船橋市史 原始・古代・中世編(船橋市史編纂委員会、平成3年3月発行)」には、字中井台、坪井町638番地と639番地が城址であると明記されている。このギャップが不思議だ。米本城(八千代市)とともに滅亡したと伝承されている。

 注目したいのは「船橋小字地図(滝口昭二著、平成6年6月2日発行)」、地区ごとの小集落情報を分析した一連の資料集だ。船橋市社会科研究会が調査協力したとある。当該資料にも、やはり、中井台(仲井台)が以前は城の台と呼ばれ、坪井城址と想定されるとしている。
 更に、この資料では(1)地籍図を見ると堀跡の地割が認められる、(2)城の南側に武士の屋敷がたくさん並んでいたと伝承されている、(3)吉橋城(八千代市)の出城であったと考えられる、としている。
 この内、(2)に登場する武士の屋敷群らしい遺構が伝承の通り、南側で発掘されており、源七山遺跡と呼ばれている(「地名の由来」、「坪井城址」も参照されたい)。

 さて、どの資料でも、敢えて「城」と表現されているが、規模は決して大きくはない。「城館」または「郭」、東北なら「柵」と呼ぶべき規模だろう。前述の船橋市史の記載を紹介しよう。

 〇 桑納川の支流が形成する支谷により、東・北・西の三方が囲まれる標高二五メートル程の大地中央部が城である。
 〇 遺構は、明治期の耕地開発により失われ、現在平坦な畑地となっている。
 〇 (伝承では)高さ二メートル余の土塁、深さ二メートル以上の空堀が廻っていた、方形の城で、南側に虎口があったという。

 具体的な面積に言及した資料はまだ見出していないが、近隣の城館(金堀城など)の例では総面積1.5ha程の中に50m四方程の土手に囲まれた主郭があり、他に外郭があるという程度なので、同様の規模と構造ではないかと類推するところだ。船橋市史は単郭で大地の中央に配置された方形の居城と補足しており、戦国時代の築城様式と異なる点が見られることから、それ以前に土豪の居城として成立していたのではないだろうか、と結んでいる。

 時代は室町時代とする説が多い。これは1枚の板碑(ばんぴ、いたひ)が出土しており、歴応四年(1341年)の銘があることが理由だろう。室町時代とは足利尊氏が室町幕府を開いた延元元年(1336年)から織田信長の台頭までの時期をさす。この時期に存在したと推測されるのであって、どの時期からいつまで機能していたのかは判然としていない。

 

登録[2010/06/27] - 更新[2010/07/11]

写真(2002/10/06) : 正面の林方面が城址と見られる(畑になっている)。