HOME入口へ坪井の歴史 ≪ 遺跡 (1)源七山遺跡

遺跡

 「坪井」は地理的、歴史的にどんな位置と正確を持つ地域なのか、少しだけ踏む込んでみるとおもしろいかも知れない。

(1)源七山遺跡

源七山遺跡発掘調査  現在の「坪井地区」は、南部の東葉高速鉄道「船橋日大前駅」と、駅を核に開発された「船橋美し学園 芽吹の杜」に中心が移っている。このエリアは2010年2月からの住居表示開始によって、「坪井東」と表記されるようになった。実は資料で見る限り、この駅も新興住宅地も「源七山遺跡」の上に展開していることが分かる。
 この遺跡については船橋市の調査記録もあるようだが、なかなか目にすることができない。以前、佐倉市の図書館で「船橋市源七山遺跡−坪井地区埋蔵文化財調査報告書−」を目にしていた。独立行政法人都市再生機構(愛称:UR都市機構)が坪井地区特定区画整理事業に際して、長期間を要した調査結果を報告書としてまとめたものだ。

 遺跡は、いわゆる複合遺跡で、複数の時代の遺跡が併存している。つまり、旧石器時代から縄文時代の矢じりや土器が出土する傍らで、中世の屋敷跡とみられる大規模な遺構群があり、近世の小金下野牧に構築された馬土手も存在する。注目したいのは屋敷跡の遺構群だ。
 注目したいのは屋敷跡の遺構群だ。前述の「芽吹の杜」の計画戸数は約2、300戸と表明されている大規模な新興住宅地だが、地下に眠っていた遺構も相当大規模であったらしい。もちろん、現在の住宅とは建築物間の距離、即ちの密度が異なるので総戸数は異なるだろうが、壮観な屋敷群の姿であったことは間違いなさそうだ。

 発掘調査の様子は地名の由来でも写真を掲出しているので参照されたい。


 

登録[2010/07/05] - 更新[2010/07/11]

写真(2002/07/07) : 林の樹木を伐採して露出した。林道の左右に展開しており、一画に更に大きめの居住跡らしき遺構も見られた。