HOME入口へ坪井の歴史 ≪ 遺跡 (2)坪井城址

遺跡

 「坪井」は地理的、歴史的にどんな位置と正確を持つ地域なのか、少しだけ踏む込んでみるとおもしろいかも知れない。

(2)坪井城址

坪井城址(近隣地)  もう随分前のことにあるが、東葉高速鉄道の「船橋日大前」に近い場所で遺跡の発掘調査をしているのを見て、坪井城址かも知れないと思ったことがあった。実際には「源七山遺跡」だった訳だが、では、城址はどこ?と調べたことがある。

 坪井城址という遺跡は、現状、ご覧の通りの畑になっていて、ざっと見ただけでは遺構には見えない。地籍図を見ると、その構造が浮かび上がってくると言う。現在は使われていない「字、小字」で表現することになるが『坪井町字中井台』が該当する場所だ。桑納川が流れる地域から見ると少し高く、坪井川と駒込川に囲まれている台地の上に位置する。船橋市史によると、言い伝えでは「高さ二メートル余の土塁、深さ二メートル以上の空堀が廻っていた方形の城で、南側に虎口があったという」そうだ。虎口とは城郭の入口を意味する。
坪井城址(近隣地)  幾つかの資料で「台地の中央部にある」と強調されていた。これは、戦国時代の城郭が、一般に台地の端に下を見下ろすように建築されたのだが、この城は中央部にあるという特徴を述べているのだ。この事実より、戦国時代より古い時代に、地方有力者の館としてスタートしたのではないかという推定もある。

 蛇足になってしまうが、規模としては50m四方程度とのこと。私の郷里では、このサイズなら「城」や「郭」ではなく「柵」と呼ぶ。

謎の坪井城址も参照されたい。)


 [ 歴史散歩(2010/09/27 黒澤誠悦氏の講演より) ]
 前述の通り、坪井城址の現状は畑。実は、明治時代は広い杉の林で「バクチ場」と呼ばれていた。危険な場所だったため、有志が開墾して安全な状態にした結果なのだそうだ。

 

登録[2010/07/31] - 更新[2011/11/21]

写真(2002/06/26) : たまたま通った道で畑と古い家を写した。後日調べたら、この一角が城址と見られる地域だった。