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下総三山の七年祭り(八王子神社)−前編−

下総三山の七年祭りは6年毎の丑年と未年、つまり、数えで7年目に行われる安産祈願の祭りで、県指定無形民俗文化財だ。

七年祭り(八王子神社)ってなんだろう!?

七年祭り(坪井本村、子安神社)  この地に住んで、もう20年を数えるのだから、この祭りを見る機会は最低でも3度あったはずだが、奉納される神輿の姿を間近で見たのは今年が初めてだった。地元の文化に興味を持っていても、この始末!近隣の新興住宅地の住民は、この祭りに関してほぼ知らない様子である。実は、船橋市・千葉市・八千代市・習志野市にある九つの神社に納められている神輿が、三山の二宮神社境内に参拝に訪れるという独特のストーリーを持っている。

七年祭り(坪井本村)  この祭りについて子安神社で、以下のように説明していた(再掲)。

 下総三山の「七年祭」をご存じだろうか。とても有名な神事なので、ネット検索すれば簡単にヒットすることだろう。船橋市三山に中核となる二宮神社があり、近隣の神輿が集結する6年に一度の大祭である。「七年」は数えで7年目という趣旨らしい。
 男性的な神輿が前面に出てしまっているが、元来は安産祈願の祭と言われる。二宮神社に集結する子安神社、子守神社は、残念ながら、ともに千葉市花見川区であるが、一方で坪井村も二宮神社の注連下(しめした)二十一か村に数えられている。補足ながら、隣の古和釜にある八王子神社の神輿は存在感のある立場で「七年祭」に参加していると言われるが、また、別の機会に説明できると思われる。

 ここで、下総三山の「七年祭」は船橋市の祭りかという見方があると思うが、集結する神輿は八千代市や千葉市、習志野市という広域にまたがる。つまり、こうした長い歴史を誇る祭りに、現在の自治体区割りは大きな意味を持たないということだ。
 なにしろ、この祭り、諸説はあるそうだが、700年という長い歴史を持っている。安産祈願の祭礼の起源をたどると室町時代の話に繋がるという。足利尊氏の時代だ。現在の運営スタイルになってからでさえ、300年・・・。千葉県という括りすら意味を持たないことは明らかであろう。
七年祭り(坪井本村)

 この祭りについて−後編−でも少し補足ている。

 八王子神社は古和釜地区にあるが、坪井や大穴からもたくさんの方が、地区の提灯を掲げて祭りに参加する。本村の氏子と協力者たちということだろう。子安神社や自治体の会館には、祭りを祝う旗が掲げられ、辻々には提灯が見られる。こうした小さな地割には余り関係がないのだろうと思われた。
七年祭り(概説、船橋市教育委員会)

下総三山の七年祭り

 この祭りは、船橋市・千葉市・習志野市・八千代市の九つの神社が集まる下総地方を代表する寄合祭りです。祭りは9月に行われる小祭と、11月に行われる大祭からなり、6年毎の丑年と未年に行われ、数え年で7年になることから、七年祭りと呼ばれています。
 お祭りの起源には複数の説がありますが、室町時代の千葉一族、馬加康胤にまつわる安産祈願と安産御礼の故事に由来する説が有力とされています。
 小祭はかつて湯立の神事により大祭の日を占ったことから湯立祭とも呼ばれ、二宮神社だけで行われます。神輿や山車などが、一日かけて三山町内をねり歩きます。
 大祭初日は「禊式」で、旧鷺沼海岸に行き身を清め、翌日に備えます。2日目は「安産御礼大祭」で神揃場(船橋市三山7)に全ての神社の御輿が勢揃いし、七曲りと呼ばれる道を通って御山神社に向かい、昇殿して参拝します。 三日目の「磯出祭」は千葉市の旧幕張海岸で、4社によって行われる安産を祈願する催事です。このあと御山神社と子安神社の神輿による「別れの儀式」を行い、その帰りに二宮神社の神輿だけが習志野市鷺沼の「神之台(火の口台)」に立ち寄って、神事を行います。 この神事は、祭りの終わりを知らせるものと言われています。ここ八王子神社では安産御礼大祭のあと、町内を神輿や山車がねり歩く氏子廻りを行います。  

船橋市教育委員会


七年祭り(八王子神社、石神家)
七年祭り(八王子神社、石神家) 七年祭り(八王子神社、石神家)
(A) 氏子には斎藤氏と石神氏が多い (B) 石神には苗字と字名(地名)がある
 

八王子神社の氏子(斎藤氏と石神氏)

 八王子神社の入口にある石段に氏子連の名前(もしくは屋号)が刻まれている。氏子さんには斎藤氏と石神氏が多い。斎藤氏については本村の苗字を参照願いたい。さて、石神氏だが、「船橋人名辞典」(船橋市発行)に登場する「石神隼人」に関連があると推測される。その「石神隼人」の項には、以下のように記されているという(引用)。

 『源姓、名義道、古和釜部落より西方十町程の台地と大穴境の堤下盆地に空堀あり、俗称小穴城とよぶ。云う、義道、之を造ると。豊富、小穴の開拓主石神隼人は野州足利郡源義康の嫡男。十八才の時、父の勘気を蒙り義影、義則、信勝、義繁の一行と東行して、寛平元年三月十四日、下総国無人地に入り砦を構え小穴城百二十石領主義影<皆真>と称し、信明、真有、六代隼人八郎兵衛の時代より次第に人家増加し、昌泰四年三月十五日義則入道恵光、東光寺を開創す。義興時に、年廿二。八郎兵衛の遺女と婚してその家を嗣ぐ。弟義敏、古和釜六左衛門三女と婚して大穴に分派し、ここに石神と、斎藤の両家相協力して専ら開墾の業に努む。豊富には今に石神と称する家多く、大穴は又斎藤一族の根拠地として知られている。』

 石神家に関する出自などの記載内容が、どの程度正しいかは別問題として、石神家は豊富(大穴や古和釜)に多く、斎藤家と姻戚関係となって、この地域を開梱して、盛り上げてきた一族であることは疑いようがない。八王子神社氏子連の中心的な存在なのだろうと推測できる。


七年祭り(八王子神社) 七年祭り(八王子神社) 七年祭り(八王子神社)
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登録[2015/11/09] - 更新[2015/11/10]

写真(2015/10/30)