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子安神社

小さな町の生活に役立っている目立たないインフラストラクチャ、その一端を見なおしてみると、意外におもしろいかも知れない。

子安神社ってなんだろう!?

子安神社境内  今回は、神社の話題。歴史のカテゴリーにすべきかとも思うが、元来、神社仏閣、宗教にかかわる寄り合い所は間違いなく町のインフラであるはずだろうという思いがある。編者は宗教とは距離を置いて客観性を維持しているつもりだが、興味を失している訳ではない(笑)。坪井には宗教関連施設が少ない。寺院が新旧で3つ、神社は、今回の対象である子安神社のみ(宅内に設置された神社、石祠を除く)。他にはキリスト教、天理教、創価学会を含めて、現在のところ、確認できていない。

子安神社境内  子安神社については坪井の民話でも取り上げているが、元来は子安講のための寄り合い所である。結婚した女性が子供を授かりたいと子安神(子守神)に祈願する場所であり、安産や子供の健康な成長を感謝する場所なのだという。船橋市内には比較的多く、資料文献によって数は異なるが、「船橋の歴史散歩宮(原武夫著)」によると十九夜塔が88基、二十三夜塔が26基、二十六夜塔が10基、子安塔が78基の計205基が残っているという。
 現在の坪井の子安神社は敷地が広く、平成21年(2009年)にきれいに整備されたようだ。それまで、ここに町会の施設があった。そうした施設と併設されるのは自然な話だと思われる。ここで、70歳以上のお年寄りが毎月末に「おこもり」をしたとの口伝がある。その坪井町自治会館は、明治の大火で焼けた安養寺の跡地に新築されている。

 下総三山の「七年祭」をご存じだろうか。とても有名な神事なので、ネット検索すれば簡単にヒットすることだろう。船橋市三山に中核となる二宮神社があり、近隣の神輿が集結する6年に一度の大祭である。「七年」は数えで7年目という趣旨らしい。
 男性的な神輿が前面に出てしまっているが、元来は安産祈願の祭と言われる。二宮神社に集結する子安神社、子守神社は、残念ながら、ともに千葉市花見川区であるが、一方で坪井村も二宮神社の注連下(しめした)二十一か村に数えられている。補足ながら、隣の古和釜にある八王子神社の神輿は存在感のある立場で「七年祭」に参加していると言われるが、また、別の機会に説明できると思われる。


子安観音(菩薩)像  鳥居をくぐり、短い参道の向かいに1間社流造の子安神社がある。「坪井町の民家(1982船橋市教育委員会)」によると、これは昭和26年に改築されたものとされる。
 ポイントは祠に向かって左側に立つ3体の浮き彫りされた像であろう。天保10年(1839年)と刻まれる最も古そうな右側の像には「大明神」の文字が読み取れる。宝髻を結い上げ、首をわずか傾けている半跏坐像だ。これに対して、中央の像は大正2年(1913年)の造立による正面を向く半跏坐像で子安観音(菩薩)像に見える。上部には梵字が見え、下部に「女人講中」と言う文字が彫り込まれている。ともに如意輪観音の流れであろうと推察される。
 毛色が異なるのは左側の新しい像だ。剃髪した地蔵菩薩の姿で乳飲み子を左手に抱く立像という姿をしている。下部に「女人講中」の文字が彫られており、目的は同じなのだろう。お地蔵さまは、一般的には子供の守り神なので、まぁ、問題があるという訳でもなく、神様に性別はない(?)。平成21年(2009年)に全体を整備した際に加えたものと推察できる。

 一帯の道は、一般に城郭周辺に見られる込み入った体裁であり、折れ曲がり、行き止まり、地元に不案内な侵入者を拒む防備が優先となっている。


子安神社 子安神社 子安神社
子安神社 子安神社 子安神社
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(A) 子安神社境内整備記念碑 (B) 鳥居表面から見る境内 (C) 聖徳太子講中の石塔

 前述の通り、境内は平成21年(2009年)にきれいに整備されている。その整備事業の記念碑が建っているが、当然ながら、ほぼ岩佐さんと斎藤さんばかり(本村の名字参照)。
 整備以前の状態は地味で素朴な感じだった。ある意味では、よそ者が入り込む雰囲気ではなかったとも言える。時は流れ、よそ者の方が大勢を占めるようになった現在、誰でも入りやすい小さな神社という風情に変わったことは良いことなのだろう。

 最後に、神社の境内に太子講の石塔と言うか、石碑が建っている話を一つ。聖徳太子を神様として祭る講が同居していることになる。日本は八百万の神々を敬い、救いを求める信仰の対象とする国だ。このような同居にと留まらず、複数の神様を合祀するという行為は極く普通に行われている。唯一神、絶対神という発想は砂漠で発生した信仰であり、そもそも論で言えば欧州においても古い信仰は八百万の神々の発想に近い。
 稀に寺院と神社が一体化している施設があり、現在では奇妙な感じがするであろう。しかしながら、これらが明確に分けられたのは歴史的には最近のことと言える(明治維新政府による神仏分離)。もっともっと長い歴史で俯瞰すれば、もともと存在した土着信仰に対して、例えば仏教は平安時代に移入された外来宗教であり、例によって、おおらかなる国民性が融合して受け入れたものであった。意地を張って分離したり、唯一絶対を主張すれば、少なくても平和な暮らしは難しいというものだろう。

 

登録[2011/11/26] - 更新[2011/11/28]

写真(2011/11/20) : 改めて、本村近隣を歩いてみた際に撮影。