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下総三山の七年祭り(八王子神社)−後編−

下総三山の七年祭りは6年毎の丑年と未年、つまり、数えで7年目に行われる安産祈願の祭りで、県指定無形民俗文化財だ。

七年祭りをやっと(少しだけ)拝見しました

七年祭り(八王子神社境内)  この地に住んで、もう20年を数えるのだから、この祭りを見る機会は最低でも3度あったはずだが、奉納される神輿の姿を間近で見たのは今年が初めてだった。地元の文化に興味を持っていても、この始末!近隣の新興住宅地の住民は、この祭りに関してほぼ知らない様子である。実は、船橋市・千葉市・八千代市・習志野市にある九つの神社に納められている神輿が、三山の二宮神社境内に参拝に訪れるという独特のストーリーを持っている。

七年祭り(八王子神社境内)  この祭りについて子安神社で、以下のように説明していた(再掲)。

 下総三山の「七年祭」をご存じだろうか。とても有名な神事なので、ネット検索すれば簡単にヒットすることだろう。船橋市三山に中核となる二宮神社があり、近隣の神輿が集結する6年に一度の大祭である。「七年」は数えで7年目という趣旨らしい。
 男性的な神輿が前面に出てしまっているが、元来は安産祈願の祭と言われる。二宮神社に集結する子安神社、子守神社は、残念ながら、ともに千葉市花見川区であるが、一方で坪井村も二宮神社の注連下(しめした)二十一か村に数えられている。補足ながら、隣の古和釜にある八王子神社の神輿は存在感のある立場で「七年祭」に参加していると言われるが、また、別の機会に説明できると思われる。

 その八王子神社の神輿の立場について、下方の表を参照いただくと分かりやすいところだが、末息子という役割で、二宮神社への昇殿順が3番めとなっている。土足で昇殿して良いのだという話を聞いたことがあった(未確認)。

七年祭り(八王子神社境内)  八王子神社は古和釜地区にあるが、坪井や大穴からもたくさんの方が、地区の提灯を掲げて祭りに参加する。本村の氏子と協力者たちということだろう。
 坪井には、古くから存在する本村と、林を開拓して作り上げた新興住宅地、それから中間的な位置づけで東葉高速鉄道と共に開発された地区がある。
 こうした比較的新しい住宅地で神輿を担いで祭りを行っているエリアがあるのだが、そうしたエリアには実際のところ神社がない!神社がないのに御輿を担ぐという妙な現象が起きている。『仏作って魂入れず』ではないが、神様の乗り物である神輿に、いったい何を載せて騒いでいるのかと、不敬な印象を拭えないのは自分だけだろうか。

 300年の歴史を持つ七年祭りは、古式の則り、神さまを迎えて、一つ一つの儀式を几帳面に積み重ねて、まさに神事として時間を掛けて完成させていくのである。二宮神社周辺(三山七丁目の神揃場)で行われる祭りの主要部分については、次の機会があれば拝見したいと思っているが、道路が狭いためか、当日、近づくことも難しいと思われた。まぁ、歩いていけば良いのだろう(注:余り詳しい情報がないが、磯出祭はなかなか拝見できない部分であるらしい)。


神輿が参加する九つの神社(二宮神社の社殿に神輿をあげる昇殿順)
神社 所在地 祭りでの役割
二宮神社(にのみやじんじゃ) 船橋市三山 父・夫
菊田神社(きくたじんじゃ) 習志野市津田沼 伯父
八王子神社(はちおうじじんじゃ) 船橋市古和釜 末息子
高津比め神社(たかつひめじんじゃ) 〔*『め』は口遍に「羊」〕 八千代市高津 姫君
時平神社(ときひらじんじゃ) 八千代市大和田・萱田町 長男
大宮大原神社(おおはらおおみやじんじゃ) 習志野市実籾 叔母
三代王神社(さんだいおうじんじゃ) 千葉市花見川区武石町 産婆
子安神社(こやすじんじゃ) 千葉市花見川区畑町 母・妻
子守神社(こまもりじんじゃ) 千葉市花見川区幕張町 子守

 

<習志野市のホームページから引用> 下総三山の七年祭り

 習志野市内の神社の神輿は、菊田神社と大宮大原神社が参加しますが、このほかに、藤崎の人々が田喜野井とともに二宮神社の神輿の担ぎ手として参加します。また、大祭前日の(みそぎ)式は鷺沼(現在は袖ケ浦)で行われ、一行は鷺沼の()神社で接待を受けます。磯出(いそで)祭後の神之台(かんのだい)神事は津田沼(久々田(くぐた))で行われます。習志野市内の多くの人々が様々な形で関わっている祭りです。
 七年祭りの起源については、次のような伝承があります。15世紀後半に馬加(現在の幕張)を本拠とした千葉氏の一族、馬加康胤(まくわりやすたね)の夫人が、臨月を過ぎても出産の気配がなく、二宮神社などの神職に祈祷させ、浜辺で祭事を行ったところ、無事に男子を出産し、以後、康胤は安産御礼の祭りを行うようになったといいます。
 また、七年祭りに関わる伝承としては、藤原時平(ときひら)の子孫、藤原師経(もろつね)の伝説が知られています。都を追われて東国に来た師経が、海路暴風に遭い、久々田(現在の津田沼)に流れ着きました。見失った姉の船に合図の烽火を挙げたのが神之台で、その後師経は二宮神社を深く信仰したとも、二宮神社に祀られたともいいます。このほかにも様々な伝説があります。
 祭りが現在のような形になったのがいつごろなのかはよくわかっていませんが、七年に一度行われるようになったのは、享保(きょうほう)12年(1727)ともいわれます。江戸時代後期を通じて形が整えられ、規模も大きくなっていったようです。

 

<八千代市のホームページから引用> 八千代市内の神社と大祭

 八千代市内の神社で大祭に参加するのは、高津比め神社と、大和田と萱田町の時平神社です。
 高津比め神社の神輿と萱田町時平神社の神輿が4市・9社の神輿が集まる三山の神揃場へと行き、順番に二宮神社へ神輿ごと昇殿参拝します。
 昇殿参拝が終わると磯出式に参加する4社(二宮神社・子安神社・三代王神社・子守神社)の神輿以外は、各地元へと帰りますが、高津比め神社の神輿は、磯出式へ向かう神輿を見送った後、地元へと帰ります。
 また、大和田時平神社は、神輿ではなく山車を出します。大祭において山車が出るのは大和田時平神社だけで、萱田町時平神社の神輿が昇殿参拝へと向かう際には、神輿に続いて二宮神社境内へと向かいます。

 

<「七年祭り」から引用> 八王子神社のある台地 古和釜・坪井を中心として

 「習志野の大地の北方に、七年祭りに参加する八王子神社の氏子の村がある。印旛沼に流下する桑折川上流域にある5つの村で、古和釜、大穴、楠ケ山、坪井、海老ヶ作である。」
 こうして始まる記述に【坪井のこと】という章が続くので、少し引用してみます。

 「坪井は窪地を利用したゆるい斜面に集落の半分ほどが乗りかかり、半分は台地の下に並んでいる。集落は高低差12メートル余の中にあり、田と台地上の畑、山林をうまく使えるよう開拓された集落である。」

 2020年現在の坪井の新しい住宅地を見ているとピンとこないかも知れませんが、開発以前の状態を知っている方にはナールホドという表現ではないでしょうか。
 もう少し引用を続けたいところですが、ここは控えさせていただき、少し気になったワードを少し書いておきます。それは「〜窪地には小さな古墳が点在し、〜」という記述です。遺跡発掘の話は知っていましたが、古墳については寡聞にして知りませんでした。
 いづれにしても、古い時代から地層を重ねるように、幾つかの活動痕跡があるエリアであることが再認識されますね。


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(A) 夕刻、神輿が無事に奉納された (B) 他にも神輿が保管されている (C) 半被の背に鮮やかな赤い八の字
 

登録[2015/11/02] - 更新[2015/11/09] - 更新[2020/01/11]

写真(2015/11/02)