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坪井の位置

坪井」は地理的、歴史的にどんな位置と正確を持つ地域なのか、少しだけ踏む込んでみるとおもしろいかも知れない。

(1)道標

 成田山新勝寺参詣のための道「成田街道(成田山道)」は、お江戸から船で市川宿(千葉県市川市)に至り、習志野の起伏の少ない草原を八幡宿(同)から船橋宿(同船橋市)、大和田宿(同八千代市)、臼井宿(同佐倉市)、酒々井宿(酒々井町)と進み、寺台宿(同成田市)まで続いている。現在も「国道296号」として主要な生活道路だが、比較的狭い道幅に対して交通量が多く、なかなか混雑が緩和されない。「坪井」は船橋宿から大和田宿の間に位置する。この区間を中世の書籍で探すと、前原、薬円台という地名辺りなら登場するが、近隣に位置する「坪井」が登場することはほとんどない。

現在の新木戸交差点 新木戸分岐点の道標  現在の地図で、前原、薬円台、そして「鬼の第一空てい師団」を擁する陸上自衛隊習志野駐屯地を過ぎると、車検場(習志野自動車検査登録事務所)の交差点を経て新木戸という三差路に出る(写真参照)。江戸時代に「牧」として馬の放牧に利用された草原だった習志野原エリアには「木戸」という地名が多い。
 徳川幕府直轄の広大な放牧場で「小金牧」と呼ばれていた。庄内牧、高田牧、上野牧、中野牧、印西牧および下野牧の6つに区分される。北端の庄内牧は現在の野田付近、そこから流山、柏、松戸、五香、初富、二和、三咲と南下して、薬円台から実籾、南端は津田沼近くまで及ぶ広大さだ。坪井は下野の牧の東端に位置する。長く住んでいる方は、この地にも牧場と村(田畑)を分ける「野馬土手」があったと語る。

 話を戻して、この新木戸三差路は、ここから左に分かれる「木下街道」との分岐点だ。写真の道標には成田山と刻まれている。成田方面に向かって右側に道標があるが、残念ながら、邪魔者扱いにしか見えない状況だ。GPSの時代には無用の長物ではあろうが・・・。

坪井町入口の交差点表示 坪井町分岐点の道標  実は400m程度で更に分岐があり、ここをまた左に折れると「坪井道」となる。因みに、船橋市教育委員会編「成田街道(1987年)」によると、この分岐点にある墓碑の一部(文化十四年=1917年の銘あり)には、『右よしはしョリきおろし、左たかもと、又左つぼい道』と刻まれているという。後日、確認をさせていただいたが、個人の墓碑でもあり、詳細は控えることにする。
 東葉高速鉄道の最寄り駅「船橋日大前」を核に生活をしている住民にとっては、このT字路が「坪井町入口」と表現されるのは奇妙であろう。しかしながら、このようにして主要道からの分岐で理解すると、確かにここが入口と理解できる。極く最近(2010年)、新しい道路の間口が少しずれて開いたため、変形十字路風になった。後付けで道路を作ろうとすると、諸事情があって最大効率を引き出すのは難しいのだろう。ここ特有の混雑は余り緩和されていない気がする。

庚申塔と道標 現在の新木戸交差点  この庚申塔は上記の墓碑から更に進んだ八千代市との境界で、とても困った変形交差点(高本入口)に立っている。なぜか微妙なカーブの途中が交差点だ。先程登場した「高本」と「坪井」の分岐だけなら問題ないのだが、木下街道方面に戻る狭い道が組み合わされていて、地元のドライバーでも交差点に入るタイミングを計り兼ねることがある。
 掘られているのは青面金剛(下部には三猿)なので、外部からの守護を意図した典型的な庚申講の石造物だ。つまり、この地点が部落の境界であったことになる。現地に坪井町会が設置した資料によると、道標も兼ねた庚申塔正面には『むかうへゆけはさくらミち』、右には『このほう行は小かね町』、左には『このほうへ行ハふなはし』と刻まれている。また、庚申塔右側の道標にも、正面に『右御滝山道』、右に『左大和田道』、左には『船橋道』と刻まれている。御滝山道とは御滝山金蔵寺(船橋市金杉)を意味していると説明されている。

 [注] 前述『むかうへゆけはさくらミち』は「向こうへ行けば佐倉道」、佐倉道は現在の成田街道を意味する。江戸幕府の公式文書に従えば「佐倉街道」と呼ぶのが実は正しい。


 

登録[2010/06/26] - 更新[2010/07/11]

写真(2010/06/26) : 樹下に隠れるように建つ一画は運転目線なら邪魔かも知れないが、この地に元々あった守護神である。他交差点の写真(2010/06/30)