路傍の神様
「坪井」は地理的、歴史的にどんな位置と正確を持つ地域なのか、少しだけ踏む込んでみるとおもしろいかも知れない。
(3)石造物−馬頭観音−
古い街道筋には、今でも多くの道標や石碑、道祖神などが見られる。話は道禄神宮と庚申塔(塚)、そして馬頭観音に続く。それぞれ、とても近い場所に建てられており、この位置自体に何かの意味があるような気がしてならない。
先ず、船橋市のサイトにある記述を引用させていただこう。
『坪井公民館の北方約140mの路傍には、大正3(1914)年に造立された「馬頭観世音」と刻まれた馬頭観音供養塔があります。馬頭観音は古くから仏教の中で信仰されており、その頭に頂く馬からの連想からか、馬の守護神としての性格が加わりました。さらに愛馬への供養塔として、市内に多く建てられました。
またこの馬頭観音の右には「天満宮(文化3(1806)年)」と刻まれた天神、左には「妙法観音大士(安永2(1773)年)」と刻まれた聖観音(しょうかんのん)供養塔があります。』
しまった。正直なところ、左右の塔については意識が飛んでいた(笑)。
坪井の馬頭観音は文字が刻まれているだけのシンプルなものだが、元来は六観音のひとつ馬頭観世音菩薩であり、四面二臂の像の姿をしていることが多い。ヒンズー教の最高神の一つが起源なのだとか。魔、煩悩を打ち伏せ、滅ぼすという能動的な神様らしい。
ただ、民間信仰としての捉え方は別だったのではないかと想像できるだろう。坪井の南西方面は広い小金牧の一部である下野牧であった。つまり、江戸幕府直轄の軍馬育成場とでも説明できようか。村々には農耕馬が飼われ、人と馬との関係は現代とは比べようもなく濃かったと思われる。その上、牧に多くの馬が育てられていたのだ。
馬たちと生活を共にする時代、馬という利口な動物との関係を考えれば、馬たちの安寧を祈ったり、旅の途中で命を落すことがあれば、それを弔うという強い気持ちが起きても不思議はない。日本の土着的な感覚では、むしろ、そうした関係である方が当たり前だと思われる。
残念ながら、この土地に住むようになってから、すぐ隣の八千代市で乳牛を見ることはあったが、馬と出逢ったことは一度もない。馬頭観音との関係は時間と共に変わり、ひとつの文化遺産としてだけ存在することになるのだろう。
ここから、話が番外編となる。
2011年の11月、船橋地名研究会の「地名を見る会(坪井)」にスポット参加させていただいた。書籍を参考にさせていただいている郷土史研究家の滝口昭二氏他、船橋市内の歴史や文化に造詣の深い方々に混じって、少し居所なく、それでも少々は図々しく(笑)話をうかがった一日の最後の場面である。極めて細い道の路傍を歩いていると、小さな祠の横に丸い石があった。ただし、竹で組んだ櫓と藁の屋根がある。これは?
前述の滝口氏は、これは道祖神に近いもの、基本的もしくは初期的な姿というような説明をされた。聞いていた方々はそれぞれに理解された様子である。この屋根の下にある丸い石は素朴な民衆の神様で、少しずつ立派な神様の姿に昇華しくのだろう。ここを通る時にお参りをするのだろうか。道祖神とは、元々、こうしたものだったのかと思うと、これらを護る人々の気持ちが伝わってくるような気がした。