HOME入口へ坪井の歴史 ≪ 路傍の神様 (2)石造物−庚申塚−

路傍の神様

 「坪井」は地理的、歴史的にどんな位置と正確を持つ地域なのか、少しだけ踏む込んでみるとおもしろいかも知れない。

(2)石造物−庚申塚(庚申塔)−

石造物−庚申塚−  古い街道筋には、今でも多くの道標や石碑、道祖神などが見られる。千葉県内の旧道を往くと庚申塚を数多く見かける。実は、これには驚いた。千葉県に住むようになるまで庚申塚を意識したことがなく、猿田彦神も知らなかった。こうしたものに興味が希薄であったなら、こんなサイトは運営していないだろう(笑)。関東に多いが、全国津々浦々という訳にもいかないのだろう。

石造物−庚申塚−  庚申塚は中国から伝来した庚申講に由来する石塔で、江戸時代初期から普及したとされる。一方、猿田彦神は神話時代に登場する。古事記』および『日本書紀』で堂々と活躍する由緒正しい日本古来の神様だ。やはり、日本古来の神様たちは余り細かいことを気にしない性質(たち)なのだと確信させられる瞬間だ(笑)。

 wikipediaによると、『庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀って宴会などをする風習である。』とある。因みに、三尸は「さんし」と読む。
 一方、庚申は「かのえさる」と読む。十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を組み合わせると120種類・・・、ではなく、どうやら「陽(甲丙戊庚壬)」だけを対象として組み合わせる。すると、60種類の干支ができあがる。その60日に一度やってくる日の夜、無病息災を願い、眠らずに過ごす平安時代の貴族社会の風習があった。それが民衆に浸透するようになり、前述の江戸時代に広まっていくことになるのである。

 ネット上の資料によると、庚申塔は「庚申講を3年(18回)続けた記念に建立されることが多い」とあった。しかしながら、それでは負担が大きく、結果として一面に庚申塔が建ってしまうことにならないか。船橋の歴史に詳しい郷土史研究家の滝口昭二氏は「庚申塔は60日に1回の庚申講の際におそらく少しずつのお金を持ち寄って貯めておき、10年経ったら石塔立ててきたもので、村の信仰活動の成果です。」とコメントしている。なるほど、そんなところではないかと納得してしまう次第。


 坪井地区に幾つかの庚申塚があるが、公民館と坪井小学校の間にまとめられた場所がある。説明書きによると、左から三番目は、現在の日大理工学部敷地内から移設したものらしい。
 少し拡大してみると、左側は青面金剛(しょうめんこんごう)が浮き彫りされ、神宮風な屋根を持つ造りだが、右側は石塔に庚申の文字が彫られているだけの単純な造りだ。地元の歴史を掘り起こしている岩佐さんは、民衆(百姓)の識字率の変化、つまり、文字を読めない時代には絵に描いて説明するような教え方が必要だったが、文字が読めるようになってくると文字だけで済むようになったものと推察している。仏教では庚申の本尊は青面金剛とされているので、この青面金剛は分かるが、足の下の猿は何を意味するのだろうか。この三猿は「見ざる・聞かざる・言わざる」で、神道における庚申の主神「申(さる)」に由来するらしい。同時に「自分たちの罪状を見聞きしたり、天帝に告げないで欲しい」との願望を表現したもので、更に、この猿が猿田彦神に繋がっていくということらしい。
 現代の感覚ではダジャレのような印象を受けるが、万物に神が宿るという考え方を持っていた日本人には、多くの神様たちは全て関連があると感じられたのではないか。一神教を崇拝する砂漠の民には理解できないかも知れない。
石造物−庚申塚− 石造物−庚申塚−
石造物−庚申塚−

 現在、庚申塚は立派な御影石の台座の上に建てられているが、これは極く最近のことだ。県内でも多くの路傍の神様は、草に埋もれ、土埃をかぶったままで放置されていることもある。忘れられ、邪魔者扱いになっていることさえあるらしい。この地区では、こうした神様たちが大事にされているような気がする。勿論、多くは既に廃棄されてしまったのではないかとも推察される。

 

登録[2011/12/30] - 更新[2011/12/30]

主な写真3枚(2010/06/26) : 一部(2011/12/07)