HOME入口へ坪井の歴史 ≪ 路傍の神様 (1)道禄神宮−耳だれ様−

路傍の神様

 「坪井」は地理的、歴史的にどんな位置と正確を持つ地域なのか、少しだけ踏む込んでみるとおもしろいかも知れない。

(1)道禄神宮−耳だれ様−

道禄神宮−耳だれ様−  古い街道筋には、今でも多くの道標や石碑、道祖神などが見られる。道標などは人々の移動に欠かせないファシリティとして理解の範疇だが、多くの道祖神の存在は旅の危険や外敵の侵入に対する畏怖が、現在とは比較にならない程に大きなものであったことを示すのだろう。

道禄神宮−耳だれ様−  太い樹木の根元にズンと鎮座しているのは「耳だれ様」だ。地元の方の説明では、これは耳の神様で、本村の子安神社は目の神様だという(西光寺の薬師如来秘仏も眼病平癒を祈願する目薬師らしいが・・・)。原資料が分からないが、ネットからの情報によると道禄神、つまり、道祖神の祠であり、「延享元年(1744年)11月吉日 奉造道禄神宮 下総国二宮庄坪井村」と記されていたとのことである。ただし、現在、肉眼では十分に読み取ることはできない。
 道祖神という路傍の神様は、一般に集落の境界や中間点、道路の分岐点などに建てられた。元来は村落の守り神であり、子孫繁栄の象徴であり、後に旅の安全を祈願する対象となった。猿田彦神や地蔵菩薩とも融合して、様々な様式をもって展開している。日本古来の神様たちは余り細かいことを気にしない性質(たち)なのであろう。

 道禄神が建っている場所は新築された公民館の真後ろ(北側)で、どうした訳か、付近では庚申塔や太山堂、馬頭観音供養塔などをまとめて見ることができる。
 「耳だれ」と言えば、耳の病気を見つけるキッカケともなる耳漏(じろう)のことだが、「耳だれ地蔵(不動、観音)」は全国にある。耳だれ様に中耳炎や外耳炎などを癒す(治す)祈願をするということだが、上の病気(首から上)全般とされることもあるらしい。眼や耳の病気が比較的多かったのかも知れない。


 ここには大きめの祠があるだけなので、身代わり地蔵尊のような存在ではなさそうだ。
 ところで、下の写真・右側には祠の内に、赤い衣を纏う小さなお地蔵様がいらっしゃるようだ。この場所を初めて訪れる者は、このお地蔵様が中核なのかと思い込んでしまいそうだが、左側の写真を見て欲しい。正面ではないためにしっかり見えないが、ここにはアジサイなどのお供え物があるだけである。実は左側は2010年、右側は2011年の撮影なのだ。元々、お地蔵様が鎮座していらっしゃった訳ではないことがわかってもらえよう(笑)。
道禄神宮−耳だれ様− 道禄神宮−耳だれ様−

 時々、ここを覗いてみるのだが、お供えをしている方や、何らかの興味を惹かれて見ている方は余り見かけない。それでも、公民館建設を含む再開発の際、移動をさせる計画が持ち上がった時、反対の声が上がったそうだ。船橋市役所のサイトには「ここの道祖神は坪井の区画整理事業の際、移転される計画でしたが、地元の人たちの要望等により、現在も同じ場所に建っています」と記載されている。実は同じ場所ではなく、少し動いているらしい。聞いた話だが「樹木の反対側にあったはず・・・」とか。道路が大きく移動したというのであれば、守り神である道祖神本来の立場からすれば、それに伴って移動すべきかも知れない。ただ、道路は大きく変わっていない。細い道が少し拡幅されただけなのだ。それならば、道路の方をなんとか融通できなかったものかと訝ってしまうところだろう。

 

登録[2011/12/07] - 更新[2011/12/07]

背景に若葉が茂げる写真3枚(2010/06/26) : お地蔵様が見える写真(2011/12/07)