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地名の由来 −習志野編−

 「習志野」、明治天皇が習志野ノ原と呼んだ(勅諭により命名した)、即ち、地名を賜ったとされている。

番外編

明治天皇駐蹕之処の石碑  「坪井」を含む千葉県北西部の地域一帯は「習志野」と呼ばれている。行政区分で言えば船橋市、八千代市、習志野市が該当することになり、一帯は広大な野原であった。江戸時代は徳川の牧(小金牧)の一部で、大和田原、正伯原など、いろいろな名称で呼ばれていた。明治時代になって陸軍の演習場となり、あの「坂の上の雲」に登場する秋山好古が騎兵実施学校2代目校長として赴任、その一部は現在も陸上自衛隊の駐屯地として使用されている。ここで行われた近衛兵による大演習を観閲した明治天皇が1873年5月に勅命を発して、この地が習志野原と命名された。それを記念した船橋市の指定文化財である「明治天皇駐蹕之処の碑」が習志野台に建っていた(現在は薬円台に移設)。
 因みに、当時の習志野原は現在の二宮を中心とした区画であり、行政区分では船橋市となる。津田沼を擁する習志野市は習志野原と直接の関連はない。

明治天皇駐蹕之処の石碑  さて、この近衛兵による初の天覧大演習は、当時の陸軍大将である西郷隆盛(本名:西郷吉兵衛隆永)の指揮下で実施されたものだが、直接指揮をとったのは同郷の陸軍少将であった篠原国幹(しのはらくにもと)近衛司令長官であった。当日は暴風であったが、篠原の見事な指揮を称賛して、明治天皇が「篠原に習え」との趣旨から、勅諭により習志野ノ原と命名して褒め称えた。これが習志野の地名の由来と言われる。ただ、諸説があり確証はないと補足されるのが一般的であるようだ。これが事実とすれば、元来は『習篠』と記載するのが正しいことになる。

 せっかくなので、篠原国幹のその後を語っておきたい。歴史小説などにも描かれる通り、西郷隆盛は明治政府の中枢部と意見が合わず、薩摩に戻り、紆余曲折の結果、武士の時代の最期と言われる西南戦争における反政府側の総大将として歴史に再登場する。極めて激しい戦闘なので「乱」とか「変」ではなく「戦争」と呼ばれる西南戦争の最大の激戦地は、言わずと知れた『田原坂(たはるざか)』だ。篠原は一番大隊指揮長として田原坂方面を担当した。田原坂資料館には「行き違い弾(かちあいだま)」が多く展示されているという。これは鉄砲の弾同士が空中で衝突してめり込んだものだ。尋常ではない撃ち合いだったことを物語る。
 篠原は官軍(政府軍)が押し寄せる吉次峠で陣頭指揮に立ったが、狙撃にあって命を落とした(享年42歳)。

 雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂
 右手(めて)に血刀(ちがたな) 左手(ゆんで)に手綱 馬上ゆたかな美少年

 

登録[2010/07/31] - 更新[2011/11/24]

写真(2011/11/24) : 明治天皇駐蹕之処の石碑(習志野発祥の史跡)、石碑の文字について「元帥陸軍大将(従一位大勲位功一級)公爵山縣有朋謹書」とある。