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西光寺

小さな町の生活に役立っている目立たないインフラストラクチャ、その一端を見なおしてみると、意外におもしろいかも知れない。

熊野山西光寺、第17番札所(吉橋八十八ヶ所札所)

西光寺  今回は、寺院の話題。神社同様、歴史のカテゴリーにすべきかとも思うが、元来、神社仏閣、宗教にかかわる寄り合い所は間違いなく町のインフラであるはずだろうという思いがある。編者は宗教とは距離を置いて客観性を維持しているつもりだが、興味を失している訳ではない(笑)。坪井には宗教関連施設が少ない。神社は子安神社のみ(宅内に設置された神社、石祠を除く)。寺院が新旧で3つ。他にはキリスト教、天理教、創価学会を含めて、現在のところ、確認できていない。

西光寺  坪井の寺院というと、西光寺(真言宗豊山派)と安養寺(日蓮宗)の二つではないかと思う方もおられようが、建立されて新しい鉄筋建築の阿弥陀寺(浄土真宗・真宗大谷派)が坪井東地区にある。いづれ、聞きかじりで詳しく書き過ぎるとボロも出がちで、場合によっては失礼に当たるケースを知らずにいることもあろうかと心配にもなり、ホドホドに書くべきかと思われる。

 近隣では最も長い歴史を持つ西光寺だが、開基や創建の時期について詳細には分かっていない。平安時代以降、鎌倉時代には存在していたとされる。現状について、ある資料には「廃寺」と表現されていたが、妥当であるものか否か判断できない。近隣の方の話では、少なくても住職は不在で、船橋市のサイトによると「昔は八千代市吉橋・貞福寺の末寺でありましたが、現在は無住で、船橋市金杉・金蔵寺の兼務寺となっています」とのこと。
 「坪井の民家(1982船橋市教育委員会)」によると、本堂は戦後(昭和39年頃)の再建で、「真言系密教寺院の現代建築としてはごく普通の建物」と評価している。一方、境内に新しい石碑があり、「西光寺 本堂庫裡 阿彌陀堂 改築記念 昭和四十三年十月」と刻まれている。庫裡とは、多くの場合、僧侶が居住する場所を指すので、横に建っている一般民家風な建物であろう。本堂に向かって左側に建つトタンで覆われた阿弥陀堂、および同じようなトタン張りの庫裡、これが改築記念の対象と理解すべきだろうか。戦後の再建と、この改築という2つの情報の関連性がピンと来ない。なにしろ、どうした訳か、ほぼ同じ時期に行われたであろう本堂の再建そのものを記念する石碑は見当たらないのだ。
 境内だけでなく裏手にも広い敷地があり、竹林の中に目立たないように墓石がある。この竹林と坪井城との関係がおもしろいところだが、そのお話は別の機会に譲る。

阿弥陀堂、本堂、二つの大師堂
阿弥陀堂、本堂、二つの大師堂

 実は、ここからが今回の本題と考えているトピックスである。
 同じ境内に「大師堂」が二つあるように見える。太子堂ではなく大師堂なので注意されたい。実は、太子講の話を読んだばかりだったので、危うく間違えるところだった(笑)。大師堂は真言宗の開祖である弘法大師を祀るものが多いが、基本的には大師号を与えられた僧を敬う意味もあるらしい。ここ西光寺は吉橋大師講札所の第17番であり、ご本尊は薬師如来である。そして、もう一つ、阿弥陀堂は第46番であり、ご本尊は阿弥陀如来である。近い位置に複数の札所があることは珍しくなさそうだが、どうした訳か、番号が離れすぎている。すると、この坪井の地を2回も通ることになるのだろうか。

西光寺  本家の四国八十八ヶ所遍路は、弘法大師・空海様を慕い、修行の跡を辿るもの。鳴門(徳島県)の第1番札所「霊山寺」から、さぬき(香川県)の第88番札所「大窪寺」まで、主に海岸線の辺境な修行道を歩く(遍路=辺路と解する考えもあるそうだ)。
 吉橋大師講はこれを模したもので、「下総遍路道 吉橋八十八ヶ所札所(千葉県伝承史跡保存協議会)」によると、文化4年(1807年)または翌年に、吉橋の愛宕山地蔵院貞福寺の存秀和尚によって提起されたとされる。下総四郡(8市1町)に及ぶ範囲の霊所を巡るもので、本気で歩こうとすれば、それなりの時間がかかるであろう。ただ、余り整然としていない。また天台宗や真言宗に拘らず、更に仏教に限らず、神社に大師堂が配置されているケースもあると説明されている。神仏混交の時代、堅っ苦しいことを言わないのが常識だったのだろうと類推できる。情報の信頼性については保証できないが、ウィイペディアにも記載があり、その説明によると「分割・再編によって設立された経緯や廃仏毀釈や急速な宅地化の影響などから札所の見直しが頻繁に行われたことから、札所の配置が複雑であり、同一の敷地の中に離れた番号の札所が配されていることも珍しくない」とのことである。番号の通りに巡回する必要はないと思われる。

西光寺 西光寺  蛇足だが、地元の方から、西光寺本堂は本当は本堂ではない(ダジャレにあらず)との説明を受けた。何らかの情報違いか、別の深い意味があるのか、判然としていない。主要道に面している古刹であるが、御多分に洩もれず寂しい感じがするのが残念であった。


 

登録[2011/12/08] - 更新[2011/12/08]

写真 : 改めて、本村近隣を歩いてみた際に撮影(2011/11/20)、大きい写真2枚(2011/11/27)