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安養寺

小さな町の生活に役立っている目立たないインフラストラクチャ、その一端を見なおしてみると、意外におもしろいかも知れない。

位光山安養寺、静かに時を重ねる

安養寺  寺院の話題(その2)、坪井の寺院として西光寺に引き続き、安養寺(日蓮宗)を紹介したい。例によって、神社同様、歴史のカテゴリーにすべきかとも思うが、元来、神社仏閣、宗教にかかわる寄り合い所は間違いなく町のインフラであるはずだろうという思いがある(以下、略)。

安養寺  西光寺の場合に比べて、少しだけ多く資料が残っていたらしく、開基や創建の時期について情報があるが、残念ながら、明治12年(1879)の大火で、古い記録のほとんどを消失してしまったそうだ。
 「坪井の民家(1982船橋市教育委員会)」によると、『本尊は釈迦牟尼仏で、文安2年(1445)に死去した日賢という僧が開基と伝える。別に延徳年中(1489〜91)開基したとも伝える。』とある。
 ただ、この書籍を読んでいて、腑に落ちないことがあった。それは、安養寺が建っている位置に関する記述で『小高い丘の斜面を切り開いた所にあり、見下す風景はかなりものである』とされている。ところが、安養寺は周囲が林と建造物に囲まれていて、どこかを見下すような位置関係にないのだ。実は、現在の安養寺は平成9年(1997)に移転したものであり、建物もまだ新しいということらしい。

 では、明治の火事から平成の移転までは、どうなっていたのだろう。
 前述の「坪井の民家」によると、明治30年(1897)に近くにあった明治初期の民家を移建(移築)して本堂として使用していたらしい。大火の際、安養寺のみならず、多くの民家が消失して、地元の方の話によると「数軒を残して焼けた」とのことなので、その当時の村の財政状態の如何によらず、暮らしの再建を優先したのは至極当然と思われる。また、西光寺があり、言うまでもなく全村が安養寺の檀家という訳ではなかった。檀家でないものが協力したいと思っても、限界があったことだろう。
 因みに、この時期、この地域ではたまたま真言宗は武家系、日蓮宗は農民系であったそうである。明治も中期になって、どちらに財力があったかは微妙だが、全村をあげての寺院復興という訳にはいかなかったものと推測できよう。


自治会館から見る新しい安養寺
自治会館から見る新しい安養寺

 下の写真は「坪井町自治会館」だが、ここが「坪井の民家」に登場した小高い丘である。とても立派な建築物であり、他の町内会館とは一線を画しているように思われる。ここに民家を移築した本堂が建っていたことになる。現在の自治会館は南向きだが、当時の本堂は、平面図を見る限り、現在とは90度角度が異なり、東向きであったようだ(違っていたら、是非、ご教授願いたい)。
 その本堂が向いていた方角は開けていて、確かに、見下ろす風景はかなりにもの?かも知れない。そして、その方向に現在の安養寺が見えている。
坪井町自治会館  ここからは余談になるが、この自治会館横の斜面(当時は本堂の裏手に当たる)に、焼けた安養寺の燃えさしというか、消し炭が残っているというので見せていただいた。確かに、小さな黒い炭が点々と見え隠れしていた。
 ただ、思うのだが、安養寺が燃えたというのは、移築した民家のことではないとすれば、明治12年のことであり、130年余前の出来事だ。これまでの期間に大雨も大雪も降り、嵐も吹き、毎年草も生えては枯れ、檀家が常に掃除もしたことだろう。ゴミの集配などはなかった時代であり、毎日のように焚き火もしたと思われる。常識で考えれば、仮に炭が残っていたとしても、地表にあれば、現在残っていると考える方が難しい。
 寺社を建築する際に、境内に杉を植える。これは、その杉が成長して、将来、建材として寺社の修復などに利用できるようにするためである。一般材であれば、樹齢50年程度で利用できる。大型建築用としても100年であろう。130年余という期間は、そうした時間なのである。
 敢えて、地表にあれば、と書いた。もし、長い期間、地中に埋まっていて、自治会館建築の際に表面に出てきたというのであれば、話は別だろう。炭は既に炭素化しているので、100年単位の埋設では腐らないと考えられる。どちらにしても、推測の域を出ない話なのだろうと理解した。正確に割り出そうとすれば、それこそ、炭素測定法でも活用しなければ判明しないであろう。
 ここは、明治の浪漫として捉えたい。

安養寺 七面大明神  八千代市に隣接する入口から長い参道を行くと広い駐車場がある。その片隅に石の祠があった。「南無七面大明神」と刻まれている。以下、Wikipediaから引用させていただいた。
 〜『七面大明神(しちめんだいみょうじん)は、その昔は七面天女と呼ばれ日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神である。七面天女は、当初日蓮宗の総本山である身延山久遠寺の守護神として信仰されやがては日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになった。〜
 安養寺は、昔は中山法華経寺の末寺だったとされている。


 

登録[2011/12/16] - 更新[2011/12/17]

写真 : 改めて、本村近隣を歩いてみた際に撮影(2011/11/20)